判明している音素バランス文の元ネタを集めた。
「マルサの女 撮影日記」(伊丹十三)(文藝春秋 1987 年 2 月)(c03、g01 と同一)
キャスティング、ロケハン、セット、装飾、天候、その他の現実的な諸条件とぶつかるたびにその現実と折り合いをつけ、それを何千回と重ねた結果、シナリオを書いた段階で抱いていたイメージからは想像もつかぬほど遠くへ来てしまった。
現実と妥協したのではない。あらゆる現実をすべて自分のほうへねじ曲げたのだ。
この映画は、隅から隅まで、自分にとって「これはこうでなければならぬ」というものだけででき上がっている。
この光、この影、この音、この音楽、この人間たち、この演技、この風景、この建物、この室内。
自分にとって、これらはすべてこうであらねばならぬのだ。
「『手首』の問題」(寺田寅彦)
だれであったかある学者が次のようなことを言っていた。
「自然の研究者は自然をねじ伏せようとしてはいけない。 自然をして自然のおもむく所におもむかしめるように導けばよい。そうして自然自身をして自然を研究させ、自然の神秘を物語らせればよい」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2466_11123.html
「空中ブランコのりのキキ」(別役実)
今までキキしかできなかった三回宙返りを、近くの町で他の空中ブランコ乗りが成功させてしまう。
「でもね、おばあさん。金星サーカスのピピがやったとしても、まだ世界には三回宙返りをやれる人は、二人しかいないんですよ。」
「今までは、おまえさん一人しかできなかったのさ。それが、ピピにもできるようになったんだからね。お客さんは、それじゃ練習さえすれば、だれにでもできるんじゃないかな、って考え始めるよ。」
キキは黙ってぽんやりと海のほうを見ました。しかしまもなくふり返ってほんのちょっとほほえんでみせると、そのままゆっくり歩き始めました。
「おやすみなさい。おばあさん。」
「お待ち。」
キキは立ち止まりました。
「おまえさんは、明日の晩四回宙返りをやるつもりだね。」
「ええそうです。」
「死ぬよ。」
「いいんです。死んでも。」
「おまえさんは、お客さんから大きな拍手をもらいたいという、ただそれだけのために死ぬのかね。」
「そうです。」
http://www.kca.co.jp/~nuts/tanoshi/kiki.htm
「午砲(どん)」(梅崎春生)(文芸 1984 年 9 月)
叔父さんは岬の一軒家に、ひとりぼっちで住んでいた。
日曜毎に少年は岬へあそびに行った。
三省堂の中学 3 年生の教科書に載っていたことがある。短編小説「輪唱」の一話。
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2016/01/post-e383.html
「伊豆の梅林」(天声人語 1986/02/05)
立春がすぎても厳しい寒さの日々が続く。
「春と聞かねば知らでありしを」(『早春賦(そうしゅんふ)』)の日々が続く。
文藝春秋 1986 年 9 月号 or 10 月号?
文藝春秋 1983 年。
詳細不明。エッセイ集「午後おそい客」に収録されているはず。
「マルサの女 撮影日記」(伊丹十三)(文藝春秋 1987 年 2 月)(a01、g01 と同一)
大丈夫です。毎日見てると切ってテンポを出したくなるんです。
しかしお客は初めて見るんですから、これ以上早くするとついてゆけなくなる。
最初早いテンポで巻きこんでおいて、中盤じっくり見せる。
中だるみと感じられたのは成功してるということです。絶対大丈夫です
「あの坂をのぼれば」(杉みき子)(d04 と同一)
あの坂をのぼれば、海が見える。
少年は、朝から歩いていた。草いきれがむっとたちこめる山道である。顔も背すじも汗にまみれ、休まず歩く息づかいがあらい。あの坂をのぼれば、海が見える。
それは、幼いころ、添い寝の祖母から、いつも子守唄のように聞かされたことだった。
うちの裏の、あの山を一つこえれば、海が見えるんだよ、と。
http://blog.livedoor.jp/natsuhanamiyazaki/archives/40638060.html
文藝春秋 1986 年 9 月号 or 10 月号?
「日本人と桜」(ドナルド・キーン)(文藝春秋 1984 年)
黒い樫の大木の森に生えている一本の桜の木——花が徐々に開いてゆくさまに夢中になっている人々の様子を、芭蕉はまるで絵に描いたように鮮やかに詠み上げたのだ。
森の中の小さな家に住む人々が門の外にひんぱんに姿を現し、桜の花の開き具合を確かめ、春の到来の歓びを胸いっぱいに味わって、再び家の中に入ってゆく姿が、もののみごとに描写されているのである。
冬が長くて辛ければ、それだけ歓びも大きいのだ。
エッセイ集「人の匂い」に収録されている。
「あの坂をのぼれば」(杉みき子)(c05 と同一)
日は次第に高くなる。
これから帰る道のりの長さを思って、重いため息をついたとき、少年はふと、生きものの声を耳にしたと思った。声は上から来る。
ふりあおぐと、すぐ頭上を、光が走った。
翼の長い、真っ白い大きな鳥が一羽、ゆっくりと羽ばたいて、先導するように次の峠をこえてゆく。
文藝春秋 1986 年 8 月?
詳細不明。エッセイ集「人の匂ひ」に収録されているはず。
「ケシの咲く惑星」(水樹和佳子)
毎日毎日社会のあらゆるシステムが加速度的にスピードアップされていく
それが正しいとか間違っているとかそんなことは問題じゃない
そういう文明なんだ「一切の無駄をはぶいて能率アップする」
この経済の基本原理が人の心にまで及んでしまったこれは正しくない
人間には無駄が必要だ
人間は様々な無駄を経てゆっくり成長する生物なんだ管理され保護されて無駄を知らずに育った人間は脆い
一つの回路が切れると動けなくなってしまう古いコンピュータに似ている
https://www.amazon.co.jp/dp/4150306567
「岸辺の祭り」(開高健)
新聞の論説欄を読んだって何もわからないが三面記事を読んだらその国のことがちょっとはのみこめる。
ジャーナリストになりたければ自転車のパンク直しなどは理想的な職業だよ。
えらい人の論文なんか読むな。あんな物は新聞や雑誌の白いスペースを埋めるための砂利だ
「飽満の種子」(開高健)(新潮 1978 年 1 月)
五年前にも八年前にもこの時刻にはおなじ席にすわっておなじ花が流れていくのを毎日のように眺めていたものだが、頭上にはたえまなくヘリコプターの爆音が聞え、夜空を赤い灯が点滅しながら旋回し、十分おきに照明弾がゆっくりと落ちてきて蘇鉄の林、椰子の木立ち、野立看板、河、花を蒼白にキラキラと照らしたものだった。
「開高健短篇選」などにも収録されている。
アイヌ語「ウバシ」(「雪」の意)の語源。出典不明(アイヌ関連書籍?)。
アイヌ語では雪のことを「ウバシ」という。ウは互いに、バシは走るの意味だ。
小さい雪は早く、大きい雪はふわふわと落ちてくる。
競争しているように見えるからウバシなのだろう。美しい表現だ。
https://www.chiba-c.ed.jp/chibanishi-h/top/old/hisyou/10%20hisyou.pdf
「ようこそ地球さん」(星新一)
「モナリザの眼」(舟越保武)(文藝春秋 1984 年)
その夫人は、自分の身体の中をみている。胎内を見ているのだ。胎内にうごめく胎児を見まもる眼であった。
私はその夫人が妊娠している、と確信した。
色白で、透けるような肌で、やや薄い色の瞳であった。
お腹が膨らんでいるのは見えなかったが、私は妙に確信を覚えた。
エッセイ集「人の匂い」に収録されている。
「マルサの女 撮影日記」(伊丹十三)(文藝春秋 1987 年 2 月)(a01 と同一)
先日曇天のため途中で打ち切った多摩川ロケの続き。
朝の光線を逆光気味に受けてススキが美しく光る。
レールをありったけ敷いて、ススキをバックに亮子と太郎の歩きを移動で撮る。
天声人語 1984/03/15(出典未確認)
戦時下において食糧増産の国策に背いて花を栽培するのは「国賊」だという風潮の中で、小説の中のはまは苦しむ。
「咲いてる花を抜いたり、葉の伸びている球根を掘り返したりするのは、おれには生きている花を殺すことだ。おれにはそれはどうしても出来ねえだ。」戦争末期には、花栽培の禁止令がでる。
人々は花の苗や種を焼却し、畑の花を全部抜きとってしまう。
食糧増産は必要だ。だが畑以外の土地で花を栽培するのがなぜ悪い。
はまはいう。
「かあちゃんは花なしには生きていけねえだ。なるほど花は口で食べることは出来ねえだが、口で食べるものだけが食べものじゃねえだ。心で食べるものがなくなった時、心は生きていけねえだ。」