- Parfit, *On What Matters*(2011) のSummary部分のサマリーを作ります.
〔訳リスト〕
- count in favor of
- 支持する役に立つ
- decisive reason
- 決定的な理由
- most reason
- 最大の理由
- decisive-reason-implying
- 決定的な理由込みの意味
- reason-involving goodness
- 理由が関わるような,そんなよさ
- teleological reasons
- 目的論的な理由
- telic reasons
- 目的的な理由
私たちは動物のなかでも,理由を理解することと理由に反応することとができる動物である. 事実が私たちに理由を与え,それによって私たちはある信念や欲望を抱いたり,あるしかたで行動したりする. もしあることをしようという理由が, ほかのことをしようという理由より強ければ,そのあることというのは, そうする最大の理由がある行い,ということになり, それをすべきだとか,義務があるとか,しなくてはならないとかいうことに,おそらくなる. 私たちに理由を与えるのが事実のほうであるにもかかわらず, 私たちが何を合理的に望んだりやったりできるのかを決めているのは,事実ではなく,私たちの信念のほうである.
ものがよかったり悪かったりするのは,ものが私たちに,それ自身に対して特定のしかたで応答するようにと 理由を与える,という特徴を備えている場合である. 理由込みの意味で、出来事は特定の人にとってよかったり悪かったりする、 あるいは、誰にとってもよかったり悪かったりする。 理由に関する広く受け入れられている見解の中には、そんな仕方でよかったり悪かったりするものはない、とする見解もある。
主体主義的な説によると,理由が最大の理由になるのは, その理由が私たちに,私たちのその時点での欲求や目標〔aims〕をもっともうまく 満足もしくは達成させてくれるようなとき,ということになる. 主体主義的な説のあるものは,私たちのその時点の現実の欲求や目標に訴える. また別の主体主義的な説では,その時点で持つだろう欲求や目標に訴えたり, 関連する事実をその時点で注意深く検討したら選ぶだろう選択肢に訴えたりする. こういった事実はみな私たちじしんについてのものなので,こういった理由を「主体が与える」理由と呼ぼう. いっぽう対象主義的な説によると,私たちがあるしかたで行為する理由を持つのはまさに, そうしたりそう試みたりすることによって得られる達成があるしかたでよいものだったり, 達成するに値したりするからで,しかもそういうときに限る. こういった事実は欲求や目標の対象についての事実なので,こういった理由を「対象が与える」理由と呼ぼう. 「対象が与える」理由は,価値に基づいたものでもある. この2種類の説は,深く対立することが多い. これから論じるのは,採用すべきなのは価値に基づいた対象主義的な説である,ということだ.
特定の欲求を持つのに強い理由を与えるような事実があることに気づいたとき, そういった理由への私たちの反応が自発的なものであることはほとんどない. 特定の信念を抱くべしという理由がある場合で, それに私たちが反応するときも,ほとんどの場合どうやって反応するか自分では選べない. 私たちの合理性の本質というのは,部分的には〔consists in〕, こうした理由に対する私たちの非自発的な反応に存する.
特定の信念や欲求を抱くことがよいこと〔よい状態〕だというときには, それはそういう信念や欲求を抱く理由を与えると言いたくなるかもしれない. だがそういった理由はまったく重要ではない.
単一の事実が,私たちに特定の欲求を抱かせる理由(対象が与える理由)になると同時に, それを満たすよう試みる理由(対象が与える理由)になることがある. 私たちが望むことというのは必ず,なんらかの可能なできごとであり, 広い意味では行為も事態〔states of affairs〕も含んでいる. あるできごとを目的として,またはそれ自体として望む場合,そうすることには, 目的としての理由〔telic reasons〕があることになる. また,あるよい目的のための手段として,あるできごとを望む場合は,そうする道具的な理由〔instrumental reasons〕があることになる. 望むことに最大の理由があるような目的をもっともうまく達成してくれることであれば, なんであれそうする最大の理由があることになる. というのも,そういう目的が持っている内在的特徴が,手段のほうの理由も最良にしてしまうからである.
痛みを覚えるときに悪いのは何かというと,私たちの感覚ではなく, きらいな感覚を抱いているぞという,私たちの意識状態のほうである. 同様に,好きな感覚を抱くのはよいことである. こうした,快楽主義的好き嫌いは,合理的もしくは非合理的なものではありえないが, それはそういう感覚を好いたり嫌ったりする理由を持っているわけではないからである. 私たちはほかに,自分じしんや他のひとびとの快苦について,メタ快楽主義的な欲求を持っている. こちらの欲求や選好は合理的であったり非合理的であったりするが, それはそういう欲求を持つべき強い理由を持てるからである. メタ快楽主義的な欲求ではなく,快楽主義的な好き嫌いのほうこそ, 意識状態のよさや悪さを決めている. したがって,快苦の例を使っても, 私たちの欲求が私たちに理由を与えるという〔主体主義的な〕立場の説明にはならないし, 欲求の対象がよいという〔対象主義的な〕立場の説明にもならない.
私たちが,目的としてあるできごとを望むのだけれども, そのできごとの内在的特徴が,そんなことが起きないことを望むべき強く決定的な理由を与える, という場合,そういうできごとを望むということは理性に反しており,したがって非合理的である. たとえば,あした1時間苦しむほうが,今日これから1分間痛むよりも望ましい,というのが非合理的な例だ. こんなことは言わずもがなに聞こえるかもしれない. だが,何人もの偉大な哲学者たちはこの主張を拒否しており, したがって彼らのことを,理由についての主体主義的な説をとっていると見なすことはできない.
主体主義にもいくつかある.私たちがその時点で持つ目的としての欲求〔telic desire〕すべてに訴える 〔そして,それらをすべてうまく満たす理由が最大の理由であるとする〕ものもあるし, 真なる信念にもとづいた欲求にだけ訴えるものもあるし, 十分に情報を与えられた〔fully informed〕うえでの欲求だけに訴えるものもある. 対象主義のなかには,合理的であったとしたら,情報を与えられて理性的な熟慮もしたうえで形成するだろうような,そんな選択に訴えるものもある. これら〔の主体主義と対象主義〕は似通って見えるが,大きな違いがある. いまあげた主体主義的主張のもとでは,私たちは熟慮するに際し,手続き的にみて合理的であることだけしか求められない. いっぽう対象主義の場合には,選択の際に考える反実仮想は,私たちが実質的に合理的であるようなものである. 対象主義においては,私たちが理性的にみて選ぶべきことがなんであるかは,私たちのもつ理由に依存する. いっぽう主体主義においては,私たちのもつ理由が,熟慮のあとで私たちがじっさいに選ぶことに依存する.
非常に多くのひとが,実践的理由はすべて,欲求に基づくとか,目標に基づくとか,選択に基づくとか考えているのに, 客観主義によれば,そんな理由はまったく存在しないということになるのだが,これはどうなっているのだろうか? そういうひとはみな誤解しているということになるのか? これを説明する方法はいくつかあるが,なぜいくつもあるかというと, 私たちの欲求や目標が私たちに理由を提供するように思える場合というのが,何通りかあるからだ.
およそ主張というものは,そのうちいくつかは実質的だが,なかには単に閉じたトートロジーになっているものもあって, そういうのは他に何を信じているかにかかわらずだれもが受け入れることができる. 主体主義のなかには,「理由」「べし〔should〕」「当然〔ought〕」といった語を主体主義的な趣旨で用いているものもある. こうした主張は,実質的主張にはならない.
実質のある主体主義でも,受け入れがたい含意を持つ場合がある. たとえば,主体主義では,ある未来の時点での苦悶を避けようと望むことに,しばしば理由が持てなくなってしまう. 手続き的合理性に訴えて対応しようとする主体主義もある. この対応は失敗する.
さらに,主体主義が含意するところでは, 苦悶そのもののために自分自身に対して苦悶を引き起こすべき決定的な理由があることになったり, 人生をむだにする決定的な理由があることになったり, その他の悪い目標や無価値な目標を達成するよう試みる決定的な理由があることになったりしてしまう. この反論への応答として,欲求や目標のなかには, その欲求や目標を持つべき理由を持っていないと,私たちに理由を提供しないものがある, というのが考えられる. しかしこの応答では主体主義を擁護することはできない. 主体主義において重視されるのは, ある行いが,ひとのその時点の,十分に情報を与えられたうえでの欲求や目標を満たすかどうか,それだけである. そのひとが何を望み,何を達成しようと試みているかは無関係である. 私たちに何かを行う理由は,すべての欲求が提供できるのであり,さもなければ,どの欲求も提供できないことになる. もし,いくつかの欲求は私たちに理由を提供しないと言いたいのなら,どの欲求も提供しないと帰結せざるをえない.
我々の欲求のなかには,ほかの欲求を抱く理由をひとに提供するようなものがあると主張したとしても, この欲求に基づく理由の連鎖の開始点は,抱くのに理由がいらないなんらかの欲求でなくてはならない. こういう欲求がひとに理由を提供するという主張はうまくいかないので, 主体主義においては,欲求に基づく理由がなにか欲求や目的をもつ理由を提供するとか, 何かを行う理由を提供するとかを主張できなくなる.
多くの主体主義者が言うところでは, 「我々が最大の理由を持って満たすべきなのは,我々の現時点での実際の欲求や目的ではなく, 関連する事実を知っていたら持っただろうような欲求や目的のほうだ」となる. また同時に主体主義者は, 「重要な決定をくだす際には,行いの結果がどんなものになりうるかよく知るべきだし, そうすればよりよく知ったうえでの欲求に至れる」とも言う. しかし,ここでいう結果の内的な特徴が我々に理由を与えることを, 主体主義では拒否することになるのだから,この2つの主張は整合しない.
主体主義をとるならば, できごとが個別のひとにとってよかったり悪かったりすることも, できごとが非個人的によかったり悪かったりすることも, 理由込みの意味で認めることはできなくなる. あるひとにとってはある人生こそ最良だと主張するとき, それはその人生が,十分に情報を得たうえでの,手続き的に合理的な熟慮のもとで, そのひとが選ぶであろう人生である,ということになるわけだが, 主体主義のもとでは, 変化のない苦痛に満ちた人生こそ最良, というひとがいることになる. これはありがたい主張ではない. 主体主義的な他の説明にも,また別の欠点がある.
主体主義においては,重要なことは何もないことになってしまう. こんなわびしい立場を擁護する議論は,棄却しなくてはならない. 〔べしはできるを含意することからの擁護とか, 自然主義からの擁護とかが棄却される.〕

Reason-InvolvingとReason-Implyingとを訳しわけないとだめなのでは?