英語圏ではかなり前からD言語を開発し続けることのリスクについて語られていたが,全く具体的な弊害が出て来こないので,単なるメモ.日本ではかなり遠い未来だと思う.
COBOLのように需要が逼迫しているのに人材の供給が増えず需給ミスマッチが起っているわけでは無く,需要も供給も増えないという状況下でわずかすら需要が上回っていないつも通りの状況がD言語に起きている.特に深刻なのは高価な古手エンジニアの採用が絶望的に難しいという現実だ.Haskellが台頭して数年経ちScalaがメインストリームの先頭を突っ走る2013年において新しくD言語を勉強しようとする年長はよほどの物好きしかいない.20~30歳のD言語エンジニアを雇うのはそれほど難しく無いだろうがコストがかかる.高価な40代前半の古手エンジニアを雇いたいという企業の思いとは裏腹にD言語を新たに学ぶ年長は絶滅寸前だ.
とても優秀な古手を雇用できるチャンスが巡って来た.採用担当者はこう尋ねる.「D言語は習得していますか?」「もちろんALGOL/Fortran/COBOLはお手の物です.Emacs Lispもある程度可能です」「もう一度伺いますがD言語は習得していますか?」「申し訳ございません 未習得です」
喜劇だ.
もう何年もD言語界隈で新しいモノが生まれたと言う話を聞かない.こんな事を言えばD言語ハッカーは激怒するかもしれないが,しかし現実にGHCやPyPyやJVMに比べればこの10年の間にD言語から生まれたものは微々たるものだ.何かしらの最適化にしても型システムにしても,ハッカーが新しいモノを試す土俵にはいつもGHCやPyPyやJVMが選ばれて来た(もちろんLLVMもね).
最高の理由ではないだろうか.
10年前にD言語を開発していた人たちはほぼ皆無だった.迅速に自らのアイディアを具現化するツールとしてD言語は最適だった.そして今はどうだろう.自分たちの妄想した機能が言語に反映されやすいという理由「のみ」でD言語を開発し続けている.他に理由など無い.D言語で開発する理由は自分たちの過去のダサい機能を維持しなくてもいいという理由のみだ.
控えめに言っても,そういう言語は楽しいと思う.過去とは決別し,10年後の自分たちにとって最適な選択をする.今すぐにだ.広まりすぎた言語のように手遅れになる前に.
一番良い所に誤植があります。
「今D言語を開発していのが楽しいから仕方なく」
=>
「今D言語を開発しているのが楽しいから仕方なく」