ヒュー S. マローン/ダニエル・テムキン
データベンディング、データモッシング、イメージハッキング、そしてグリッチアート、様々な名称で呼ばれる一連の手法を定義し、また理論化しようと、一年以上にわたり作家たちと断続的な議論を繰り返し以下の文章は生まれた。これらの「ノート」は完全でもないし結論的なものでもなく、復習し議論し批評し解釈を拡大させていくための、ゆるやかに描かれた一群の図を提供するものである。
1 ほとんど常に、デジタルの像は鑑賞者に、離散的なデジタルの部分部分をではなく、アナログ的外観を、ごく自然なかたちで見せている。グリッチは、デジタル表示の背後にあるデータを破壊することで、アナログをシミュレートするかたちで作られるその表示を跡形もなくする。本当は得られていただろう結果 ーー つまり、ビデオの再生、オンラインでの写真、音楽の録音などーー は今、デジタルの歪みが生んだ予期せぬ腫瘍的塊にむせ返るのである。それが故意であれ偶然であれグリッチは、我々がデジタルカルチャーの主体として信頼し、またされてもいる、コミュニケーションの場を派手に破壊するのである。
2 グリッチ表現の在り方は、正しい方法に忠実なソフトウェアが間違った一つのビットを扱う、その無能性に依っている。その意味で「グリッチ」という語は、単になんらかの失敗を引き起こす要因を意味するのではなく、不適切なデータが適切に処理されたその結果をも意味するのである。一個の問題に遭遇し、そしてソフトウェアは落ちるのではなく、なにかを吐き出しつづける。別の言い方でいうと、それは間違ったデータに遭遇したときに<十全に失敗する>という、プログラムに与えられた天性の欠陥であり、それがグリッチが存在する余地を生んでいる。そのような欠陥による撹拌を推し進めること、グリッチアートと呼ばれる手法の難解な箇所はその点なのである。
3 普通の辞書では「グリッチ」という語を、アナログ技術と関連する部分しか、定義できていない。英語で記述された最初の用例は、ジョン・グレンが初期の宇宙飛行で遭遇した電圧変調に関するものだ[1]。その辞書定義はアナログカルチャーに由来するものにもかかわらず、ある側面では、デジタルのグリッチ、そしてそれを定義せしめる強い印象にも合致すると思われる:断続的で点状のインパルスの発生。グリッチとは「電圧変化、」「突然で短命の異常な挙動」(オックスフォード英語辞典)であり、その影響は衝撃的かつ大きなものである。グリッチアートのけばけばしい外見と騒々しい音は、<わずかな傷がおおきな被害を引き起こす>、そんな起源を示しているといえる。
4 グリッチアート作品には、ときに作成するのに多大な労力を要する場合はあるとしても、大前提として労力など必要ない。グリッチアートは、一見取るに足らない小さな変更がもたらす劇的な結果を目的としている。ほとんどなにもしていないけど、見ろ!
「アートの敵は制限の欠如である」 オーソン・ウェルズ[2]
5 1960年台にリード・ガザラが確立したハードウェアサーキットベンディングの歴史と繊細さに、グリッチアートの起源はある。ガザラに影響を受けたアーティストたちは、改造したギターやエフェクター、子供用の電子的なおもちゃなどを用いたり、既存の機材を間違った使い方で使ったり、電気部品を組み合わせて新しい楽器を作ったりしながら、電子ノイズの音質を探求していった。1990年台から2000年台初頭になると、アント・スコットやイマン・モラディといったデジタルアーティストらがその手法をソフトウェア上の画像に適用しはじめる。ソフトウェアでの改造へと変化しても、DIY的なハードウェアに対する実践の繊細さは同じように保持されていた。まごついた機械音声を発生させるためにスピーク&スペルというおもちゃの基板をショートさせるかわりに、グリッチアーティストはテキストエディターで画像ファイルを開き、適当にデータを追加したり消したりして全く無傷の写真にデジタルのもやもやを付加したのである。
6 ソフトウェアベースでグリッチアートを作る手法には多様な形式がある。写真を波形編集ソフトで加工する、Photoshopで音楽を編集する、データファイルを音として録音して作られたアルバム(Wrong Application, 2001)もある、ビデオファイルをテキストエディターで編集、Wordの脱/再構築、グリッチされたOS(ベン・サイバーソンとジョン・サトロムのよる Satromizer OS)、グリッチフォント(アントニオ・ロバーツの Dataface)、グリッチプログラミング言語(ダニエル・テムキン Entropy)、グリッチされたWiki、もちろんツールだってたくさんある、n0tepad(ジェフ・ドナルドソンとダニエル・テムキン)を使った手作業によるものから、アントン・マリーニがライブパフォーマンスでグリッチっぽい映像を出すために書いた自動化ツールといったものまで。最近ではデジタル機材での実験も同じように多様になってきている。配線を組み替えたニンテンドーゲーム機、サーキットベンドされたカメラ、壊れたラップトップ、分解されたLCDディスプレイとオーバーヘッドプロジェクターを組み合わせたもの(ジョージ・クロウ 2x (Potencia de dos))。それらの実験はどれも新しく予期せぬ挙動を生み出す、グリッチの美学を拡張する探求なのである。
7 グリッチの重要な先駆者として挙げられるのは、ナム・ジュン・パイク、ジョン・ケージ、アニー・アルバース(まだ発見されていなかったフラクタル図形を描いた)、川野洋(1964年の非常にグリッチ感のあるマルコフ連鎖を使った絵画)のようなNew Tendenciesとして集まったアーティストたち、そして初期のジェネラティブアート(ブロック型のピクセルだらけの頃の)、それから80年台サイバーパンクのダークな空気の中に現れる親しみのある顔:マックス・ヘッドルーム、ルー・リードのメタル・マシーン・ミュージック(ノイズミュージックの長い歴史には言及しない)、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、リズ・ローズ(Light Music、すべてアナログの素材でできていて、グリッチビデオ作品とほとんど区別が付かない)、そして、JODIやネトチカ・ネズバノヴといったネットアートの開拓者たち。
さらに広げて、画像グリッチアーティストとして、フランソワ・ルーアン、アンディ・ウォーホル、ヤニス・クセナキス、ケン・ジェイコブス、ゲルハルト・リヒター、ジェイミー・リード。
8 グリッチアートはどの場所でもどの時点でも生まれなかった、それは千の場所でいっせいに発見されたのである(そして発見されつづける)。初期のグリッチアーティストは偶然性に魅せられた。一人きりの目撃者、おそらく世界初の、デジタル的に変換されたテキストの瞬間的な欠損 ーー たとえば、砕けたJPEG画像、または自らを牽引することができなくなった圧縮されたビデオファイル。そのエラーは誘惑的で奇妙で美しく見えた。そしてすぐさま彼は思う、この悦ばしきエラーはなにによって起きたのだろうか、どうやったらこんな画像を故意に作り出せるだろうか?グリッチアートとして意識的にそれと同じ反応を引き起こすことは可能である、にもかかわらず、その形式へのどんな鑑賞もそしてそれを生成したいと思うどんな欲求も、そもそもの純粋な事故に価値を置いていることは明白であるし、それこそ、グリッチアーティストがエミュレートしようとし、かつ/または開発し拡張しようとしている部分なのである[3]。
9 グリッチアートはプロセスアートである。デジタルデータの中に介入するそのアーティストの手は画像の視覚的本質の中にその跡を残す。そのアーティストの作業過程は正確なものではない、しかしカオスを引き込む。一手はグリッチを引き起こす、一手はグリッチを作り出さない。アーティストが続ける限られた数の操作の重なりが最終的な画像として明らかになる。
10 グリッチの実践とは、欲求による探求であるのと同様、明らかに運転による振動でもある。意図的なグリッチをスクリーンで、あるいはギャラリーの壁で鑑賞することは必ずしも「終着点」を意味しない。個別のグリッチアート作品は「道程」の残滓とでもいえそうなものだ。要するにそれは、グリッチの実践の典型例:変更する保存する見る元に戻す、変更する保存する見る元に戻す、の繰り返し、その止められないゲームのような闇雲な行為の偶然の副産物である。そのような準備を経て展示された画像や音やビデオは明らかに二次的なものであり、そのテクニックが実際にうまくいったという証明書にすぎない。
11 グリッチを実践する者にとって、偶然か故意かの区別は意味がないわけではないが、もっとも重要な区別というわけでもない。
12 その作成の過程で、グリッチアートは確率論的になる。そのデータの変更がいかに転移してゆくのか、ファイルを即死させてしまうのか、それとも識別可能な変化を起こさないのか、それを予見することは難しい。しかし、そのファイルにとってみれば、「遺伝的素因」は厳密で固定されているのであって、「57904.jpg を開き、すべての Q を 9hJ に置換」というグリッチにはなんら確率的なところはなく、その結果は常に全く同じである。ランダムにみえる結果は実は完全に再現可能なのであり、グリッチの実践とは偽-偶然であると表現することもできるだろう。
13 グリッチを生成する前に、彼は結果は予測不可能だろうと予測している、というパラドクス。もっとも魅力的なグリッチとは、鑑賞者だけではなく、作成者をも驚かせるものである。
14 別のグリッチに関するパラドクス。すべての芸術的実践と同様グリッチの技術を洗練させていくことは可能である、にもかかわらず、個々のグリッチ作品は次第に洗練されていくといったことはない。磨いたり、多層にしたり、飾り立てたりすることは、グリッチアートを間違いなくその存在論から引き離すものである。さらに、場合によっては、ちょっとグリッチを洗練させようと企てただけで、それをつまらない状態にしてしまい、展示不能にしてしまうだろう。
15 グリッチすること、それは写真にも似て、簡単であり同時に困難でもある。グリッチアーティストは作品を作りつつ、画像やビデオが十分に破損したか判断している。しかしグリッチアーティストは、自分が引き起こした色やパターンとどこか偶然的な関係を持ち存在している。その意味でグリッチアートはストリートスナップに似ていて、そのアーティストの役割とその芸術が起こりうる条件には因果関係はないが彼はそれを導きそれに反応する必要があるのだ。「グリッチの作品」と言うことに口ごもる必要はないのだろうが、それでもやはりモヤモヤするのであって、グリッチ実践のサイコロを振る側面と、いったいどこに実際のグリッチ「作品」が成立したのかが明白に不確実であることと、その両方を背負わされたような気分になる。グリッチの偶然性の一面は、緊密なグリッチアートコミュニティが存在するひとつの理由でもあり、彼らは互いに作品を共有し評価しあっている。作品が成功し真に新しいものであることは稀である。
16 グリッチを実践する人々の一部は趣味であったりDIYファンであったりする。彼らは余暇を使って成功したり失敗したり進んだり戻ったりを循環的に繰り返している。その喜びは個人的なものであるし、その方法は大部分が手元作業なので、グリッチすることは時にはアートというよりは工芸に似るだろう。もちろん科学ではない。グリッチ作成には、木を削ったり、編み物をしたり、庭木を剪定したり、大切なバイクを磨くといった、楽しい民芸的な退屈さがある。だが構造的には趣味の中では釣りがグリッチアートに近い。糸を放つ、なにがかかるかはわからない。
17 グリッチアートが完成に向かう過程でアーティストは、その作品は失敗を成功させているのかあるいは失敗を失敗させているのか、どちらなのかを不可避的に吟味する。一部のアーティストには、同じ画像から作ったいくつものグリッチのシリーズをウォーホルのような形で公開する傾向がある。<完璧なエラー>とは到達不可能なものであることをグリッチ作成者はわかっているのだが、シリーズスタイルの採用はその事実への無意識の抵抗の表れであろう。たとえば、ある人はPNG画像の生コードを開いてデータの要となるビットを探しそして書き換えたとき、そのビットはその画像をとても興味深く予期せぬ形に破壊する。またある人はオリジナルを少しずつ破損させていくが完璧なデジタルエラーに到達できない、または実績のある手続きを自分で徐々に学んでいく。もっと正確には、グリッチすることはくじ引きににて、一瞬のイチかバチかの賭けであり、最高のときには直感に導かれ、最悪のときにはまぐれに導かれる。
「アーティストが技術を学びすぎると、こぎれいな作品ができる」 ソル・ルウィット[4]
18 我々はグリッチを純粋にデジタルな現象と思いがちだ、しかしそれは見当違いである。グリッチとはアナログとデジタルの(再)生成の状態が交差する場所である。ブロックやレイヤーに分かれたデジタル変換の底部を堪能するうち、アナログ側からデジタルが突き破られる、グリッチアートとはそんな歪像である。アナログの指先が触れたとき「デジタルは野生に返る」のだ。D.N.ロドウィックが「転写と変換の差異」[5]と呼んだものは汚し貶められた。タブーは破られたのである。
19 グリッチは本質的に機械的な出来事ではない。水滴が電気回路に落ちるところを想像せよ、あるいはUPCバーコードにマジックで一本線を描き加えたなら。そこにグリッチが起こる、そしてそれは完全に機械的ではない。さらに、ファイルをグリッチするためにデジタルのインターフェースをもっともよく使うのは事実だが、この介入はまぎれもなくアナログ側から行われるのだ。究極のグリッチ体験とは以下のようなものだ。メディアファイルを無作為に選び、その長ったらしい16進数のコードを手で、コンピュータ画面で書き換える(エラーは避けられない)。そのファイルを削除し、そのコードを手書きのシートから入力し直す(もっとエラー)。保存する。ファイルを適切なソフトウェアで開く。グリッチが起こる。そんな体験はグリッチアートにおけるアナログとデジタルのつながりを明らかにする。
20 グリッチ生成は常に、<引き抜く>感覚とともにある。バンジョーの弦をつまびくような手つきで、または、はみだしたまつげを引き抜くように、広大なデータから一個のビットをつまみ出す。非常に複雑で変幻自在のデジタル形式に対面して、グリッチアーティストは真面目で熱心な態度ではなく、<抜きん出る>大胆さを持つべきである。
21 アナログ物体へのアナログな破壊、またはデジタルファイルのデジタル操作に対して「グリッチ」という語を使う限り、その語の潜在性は失われる。水に濡れたカンバスは、偶然にせよ故意にせよ、あらゆる意味でグリッチではない[6]。プリンターの電源ケーブルをネズミがかじることはグリッチを起こしうるが、なにが出力されるによる。洗濯機の中からでてきたデジカメは可能性をはらんでいる。ところで、ここでは経験からの教訓といったものを問題にはしていない。問題は、<グリッチ>、その発音が指し示すもの。その音は、急死を思わせ、そして同時になにか予期せぬ物の出現を感じさせもする。
22 アナログとデジタルを接合するのだとしても、グリッチはそれらの二元論を否定するものでは全く無い。グリッチはかなりデジタルカルチャーに寄った行為であるし、アナログとの違いをよく理解したうえで行われる。グリッチとは組み合わせの行為である、ただし(自明なように)ふたつの信号を混ぜ合わせたり分離したりするものではない。
23 先行するサーキットベンディングからグリッチがソフトウェアに移行するとき、重要な変化が起こった。大量生産で安価なテレタビーズみたいなおもちゃであっても、それらを再配線するというのは、現実世界にとりかえしのつかない変更を加えることだ。しかしソフトウェア上でのグリッチは違う。壊れたファイルを作るというのは壊れたコピーを作るということであり、オリジナルを変更することではない。その意味で、すべてのグリッチは「アンドゥー」を内蔵しているのであり、少なくとも理論的にはオリジナルは保持される。グリッチアートの破壊性は常に、実はシミュレートされた汚れであり、シミュレートされた破損であり、シミュレートされた危険である。削除されたデ・クーニングのJPEG画像は、ラウシェンバーグの Erased De Kooning Drawing (1953) とは性質的に異なる。言うまでもなくおおもとの「オリジナル」が真であることが、グリッチアーティストの大胆不敵な変更を可能にする。
24 また同時に、なんにせよグリッチの試みはちょっとした無闇な賭けなので、グリッチアーティストは変更の前に随意に「コピーを保存」する。グリッチは高度に制御不能な在り方なのだという理由で、それを好まない人もいる。スーザン・ソンタグが言うところの、媒体を「酷使」[7]した、きわめて扇動的なモダニストの芸術作品の多くは、多様な制限の中で生み出されたのだが、作家の道具立てとしてアンドゥーボタンがある状況など想定されることすらなかった。未来の美術史家は、表現の歴史の中でもっとも大きな技術論的かつ現象論的な変化の中に、クリックによる「アンドゥー」を置き、その無制限さに注目するに違いない。
25 グリッチアートの議論の中でポール・ヴィリリオがしばしば引用される。しかし我々は以下のことを明らかにしておきたい。グリッチアートとは厳密には、「マシンを理解し、内部から爆発させ、システムを占有するために解体する」努力であるとはまったく言えない。真の妨害は実行不可能である。実際、現実の妨害工作の事例は妨害している側をも傷つける危険がある。その意味では、グリッチの実践にアンドゥー機能が充実することはそれを偽-妨害工作に仕立てるだろう。グリッチした結果のファイルが、街角で公に展示されたとして、それは鑑賞者を邪魔したりムッとさせたり妨害したりしないし「システムを解体」などもしない、と言いたいのではない。そうではなくて、妨害を装いつつも、実際には、グリッチアートはデジタル表現の覇権とその主体の無抵抗さを声高に訴えているのである。
26 ピーター・ボグダノヴィッチの1968年の映画 Targets の主人公のスナイパーのように、グリッチアーティストは安全な位置から、的確に周到に、ゲームみたいな歓喜とともに笑みを浮かべて、無差別射撃する。熟練の手つきで、非常に間接的に、遠くから気楽に、そんなグリッチのアイロニー。この文脈に関連するもう一つの映画はホリス・フランプトンの(nostalgia) (1971) である。その中で映画作家が一連の写真をホットプレートで焼くのだが、ネガは焼かないのである。この破壊の物語が描くのは、実際はなにも破壊されていないということなのだ。
27 しかし、今述べたこと全てに反して、まれにグリッチアートが、変更前のオリジナルを再構成も探索もできないようなテキストを生成して、取り返しの付かない現実の妨害行為に与する事例もある。ここで重要なのは否定的側面:グリッチの破損がすべて取り返しのつかないものであるし、ほんのちょっとしたものすらそうなのだ。
「一般的なルールに反して:決して<イメージ>の愉楽に惑わされてはならない」ロラン・バルト[9]
28 全てのテクノロジーと同様にデジタルテクノロジーも失敗することがある。デジタルの失敗において、まさに驚くべき部分は、それが起こったときの人々の驚きである。それ以前のテクノロジーと違って、デジタルテクノロジーの失敗は破滅的な様相を見せがちだ。デジタルは破片やへこみ無しで失敗する。対して、アナログメディアを破滅させるには、火やハサミやヤスリやでかい磁石などでの大規模攻撃が必要になる。派手に破壊されたとき、デジタルの動画は血を流すことなく、再生不能状態に陥る。次の絵に飛ぶかわりに固まってしまう。歪めたらいい倍音が出るといったこともない。特定の振幅に到達するのではなく、「クリップ」する。そしてアナログのソースとデジタルの再生の直交を文字通り見たり聞いたりする。(そして、すべての信号はアナログから発しているし、同様にそれを知覚する生体もアナログである)
29 グリッチアートはテキストを「汚す」ことはない、そうではなく基本部分を蝕むのだ。その影響が表層で明らかになるのだとしても、グリッチの破損というのは全体にわたるものである。
30 コードは多層的に作られており、プログラマーが比喩とともに構築したそれぞれの層で、そのふるまいが規定され記述されている。技術ブロガーであるジョエル・スポルスキはそれらの抽象化は「漏れがあるもの」だと説明している[10]。それらは、そのライブラリ、ソフトウェアコンポーネント、OSなどを作ったプログラマーが用いた、隠された比喩にの上に乗っかっている。それそれの比喩はコードの振る舞いを完璧に記述しようとしているが、低いレベルではその外国語みたいな原始的なロジックを包括できておらず、漏れている。低レベルの細かい部分は見えにくい。たとえば4桁の西暦を2桁で保存することは高レベルのシステムでの大惨事の可能性となり、Y2K問題として知られるが不安が発生した。隠された層が、ときにゆっくり、しかしたいていは突然、上流のロジックへ流出する。グリッチである。
31 グリッチの美学は、ブロックのようなものやキラキラした断片に向かう傾向がある。音のグリッチも鋭利な印象を持つ。多くの人が言っているように、アナログのディストーションにあるような「流れる感じ」や「暖かさ」(トランジスタアンプより真空管アンプが優れている点)とは逆の印象である。この唐突な破損はグリッチアーティストたちが気に入っている点だ。<発狂した>画像。<金属片のような>音。
32 デジタルデータはそれ自身の解釈を含んでいない。データのブロックは漠然としたもので、外部の処理プログラムが参照するための枠組を与えられているにすぎない。グリッチアートはこの意図された処理を阻むものである。真ん中に過剰なバイト列を挿入されたJPEGファイルは、もはやJPEGの企画書に沿っていない。それは正確にはJPEGではないなにか別のものだーープログラムがデコードするには十分JPEGであるが、しかし、普通は抑圧されているが、非常に明白な、デジタル画像の非線形の本性を、間違って顕にする。
33 一方、コンピュータのインターフェイスは没入型であるーー誤認識をうながすスキューモーフィックなユーザーインターフェイス、たとえばボタン、ドロップダウンメニュー、ブラウザのウィンドウのように現実の物理性を模したものたち。我々は2つのウィンドウが混ざったり交錯したりすると思っていない。グリッチが明らかにするのは、突然の現象論的貫入であり、論理にしたがった破壊である。それが衝撃的なのは、そのマシンで作業しているとき我々はその一部であるからだ。グリッチはこの没入環境を崩壊させ、デジタルの支配を無効にしその蔓延を露わにする。
34 グリッチするとは閾値を探ることだ。つまり、半分壊れたファイルや、アナログの指先で部分的に荒らされたデジタルの写真、それらはほとんど視認できないが、完全に視認不能になったわけではない。グリッチアーティストはみんな言うのだが、ファイルを殺すのは簡単である。ファイルをゾンビのような崩壊具合にとどめておき、不死状態に保つのがとても難しい。グリッチはこの、部分的な失敗でありまた部分的な成功であるような、中間地帯のための努力である。像の表示は、それが出ている限り、ボケさせ歪め崩壊させるべきである。それが乱雑な解体を目指しているで場合でも、グリッチ的半視認性を評価できる。この「ほとんど、だが完全ではなく」の理論が、グリッチアートのその作成手法と主な審美価値の両者に行き渡っている。グリッチアートは、だから、デジタルの中での我々が置かれている清潔で親近感と信頼にあふれた<秘匿された>安寧の、不安で異常な裏の面として理解されねばならない。
35 同時に、矛盾しないかたちで、グリッチアートを自称する画像が絶え間なく洪水のように現れることでコンピュータエラーへの不安が<解消>されていると見ることもできる。グリッチアーティストたちはデジタル依存に恐怖を感じているとただちに認めはしないだろうが、彼らの作品は無意識的にコンピュータへの不安を解消する効果を備えている。唐突な破損はやがて衝撃的ではなくなり、その面白い奇妙さは美を含むようになる。エラーに美を見出すことによって、それを順応させ、「所有」し、本当の破綻の可能性を身近に、怖くないものと見做そうとする。
36 2000年台中頃、「グリッチ」という記号ーー我々がここで使用している意味でのーーはアメリカのメインストリームカルチャーの中に堂々と登場した。グリッチアートは久しく名付けられた美をもつことを拒否してきたし、また単純にアルファベットの並べ替えとか言語間の誤訳といったアナログのエラーと同じ扱いを受けやすかった。ユーモアサイトである engrish.com は、失敗に依存していることや、出来合いのものの不合理さを扱っていてロボットのようなその一貫性のおかげでグリッチっぽくなっている。似たような例で、2005年にシカゴのタトゥーアーティストが客の胸に「Chi-tonw」と彫ったことがあったが(「Chi-town」が正しい)、この事故は単なるミススペルというより「グリッチ」に近しい[11]。その後、わざと間違ったタトゥーを入れるシカゴ民が増えたのは、間違って彫られた男との団結を示すためであったし、またファッショントレンドとしてでもあった。その結果がひどく間違ったものだとしても、自分たちが完全に正しいという確信を保持している点、そこがこれらの失敗に基づくウェブの流行の重大な類似点である。おっかなびっくり一回だけ間違ったのではなく、繰り返し自信満々で失敗しているという点で、engrish.comや「Chi-tonw」はグリッチに近い存在と言える。
37 その核で、グリッチは<objet trouvé>(訳注:フランス語で「見つけた物」という意味でありレディメイド芸術の意味もある)に憧れる。野生のコンピュータエラーの採取。アントニオ・ロバーツとジェフ・ドナルドソンによる Glitch Safariプロジェクトは、彼らが公共の端末や駅のモニターで見つけたレディメイドのグリッチを、ちょうど消え去る前にとらえた写真を集めたものだ[12]。タイムズスクエアを歩けば、派手な広告が自らの複雑さに耐えかねて、看板のピクセルがその過剰さの中、壊れた様を晒している場面に立ち会っていやされるだろう。この実践の延長には、エラーメッセージーー特に公共の場にあるスクリーンで見つかったものーーの蒐集もある。「グリッチっぽい」審美的考察などまったく無しで、それらはグリッチ実践者によってエラーを出す権利を賞賛されているのだ。[13]
38 アーティストの一部は自らその画像を加工するのを最小限に止めようとし、実際にグリッチしてその様子を見ることに価値を見出している。コンピュータが間違ったデータによって行う挙動こそがドラマなのだ。そのようなアーティストにとっては、そのエラーがたとえ人工的に生成されたものであったとしても、エラーを使って画像を生成することに意味があるという意見があるはずだ。反対に意図的すぎる作品は、アーティストが故意に細部まで操作した偽物のグリッチを意味する侮蔑的な用語である「グリッチアライク」であると一蹴される[14]。この一線が、あるアーティストと別のアーティストを隔てるのであり、グリッチ解釈が衝突し差異が重なる場所である。ある少数のグリッチアーティストたちはレディメイドのグリッチだけが真のグリッチだと言い、ほとんどすべてのグリッチアートを偽物として退ける。
39 グリッチアートのコミュニティの中心的問題点は、グリッチ画像を作るアーティストが多くなったということだ。そこまで純粋じゃない者たちもいるにせよ、画像の洪水の中にはエラーや偶然の意義を大事にする者たちがいて、どうしても必要なある一つの美を追っている。集約して眺めると、その美というのはしかしグリッチのもっともわかりやすい側面となる。1990年台から2000年台にわたり多くのグリッチ画像を見てきてわかったのは、それらがスタイルを確立したということだ。少なくとも名目上は真に無計画なカオスを維持し、おそらくは故意や事前準備とは真逆の作品を作ってきたグリッチアーティストたちの暗黙の信条は、この長期的な視点の前では切り捨てられてしまう。これは多くのアートムーブメントで起こってきたことと似ていなくもない。シュルレアリストたちはかつては夢の様な繊細さを生み出すために衝撃的なイメージの組み合わせを使っていたが、次第に奇妙さが勝ってくるーーシュルレアルというよりは「シュールな人」たちになった。
40 エラーや偶然を遠慮無く加えてもありきたりな見た目の結果しか出てこないというやっかいさがある。ベン・ベーカースミスのGlitchBotプロジェクトはそれをパロディ化している。毎日クリエイティブ・コモンズの画像を無作為選択しそれをグリッチしてフリッカーのGlitch Artプールに投稿する[15]。破壊的な感覚を刷新して新しい美を得たい一部のグリッチアーティストはその陳腐さを罵倒するだろうし、またレディメイドに舞い戻ってしまう人たちもいるだろう。しかし、レディメイドにさらなる美を見出すにせよ、グリッチを未踏のエラー領域に拡大する新しい理由をつくるにせよ、まだ美を見出されていない手付かずのエラーは限りある資源のようだ。キム・アーセンドルフの Extrafile は、これまでにない機能不全と新しいエラーのパターンをそなえた、壊すためだけの新しいファイルフォーマットを作ることによってこの問題を指し示した[16]。
41 デジタル画像の底部と表層のどちらにも宿るナマの部分に触れたいという欲望。デジタルの表象が一見非物質的であるのにかかわらず、グリッチ体験の一部が物質的な性質を持っていることを否定するのはむずかしい。おそらくもっともそれが顕著になるのは、グリッチがファイルフォーマットの隠れた差異を暴き出すときだ。たとえば、JPEGとBMPは、壊れるとかなり違う見た目になる。JPEGは壊れやすく壊れ方は派手だーーJPEGは簡単に壊せるし、壊すと表示が変になる。BMPはより安定していて、無圧縮のピクセルデータを持つファイルとしてメジャーであり、壊した部分の隣のピクセルに影響を与えたりということはない。ビギナー向けの有名なテクニックに、ベンジャミン・バーグが説明する The WordPad Effect がある。これはより安定したBMPのようなファイルでしかうまくいかない[17]。ただBMPは色を小さなカラーパレットで管理しインデックス化していてそれをファイルのあらゆる場所で参照している。もしそのパレットがかき乱されると、ドリーミーでシャーベットのような画像出力になる。一方、破壊されたPNGはしばしば、まるでその画像をどこかに隠れた色とりどりの貯水槽につっこんで絞ったみたいに、左上から右下へとしぶきが飛び散ったような見た目になる。同様に、TIFFとか、DCSフォーマットEPSとか、様々なフォーマットにそれぞれの特徴がある。それらの特性を知れば、JPEGとBMPを間違うことはないし、8ビットカラーのBMPと24ビットのものも区別できる。それぞれのフォーマットを壊すとどうなるか、エラーがどのように現れるかは、経験によって明らかになる。
42 グリッチアートは、デジタルの物質性を暴露する点で、モダニズムとの厄介な関係を持つ。アンディ・キャメロンは、ビデオアートや新しいメディアアートはしばしば「そのメディウムを探求することによってその特性を明らかにする」という意味でモダニズムにかかわると指摘している[18]。これらの新しい形式は、モダニズムとなるには生まれるのが遅すぎたし、型通りの自己批評性をまだ、再領有化のようなポストモダン戦略で利用しつつも、極限まで使いきってはいない。このことは、グリッチアーティストと理論家の中に、ある不安を引き起こしてきたし、だからこそしばしば、長く説かれてきたグリーンバーグ派の課題との違いを強調することによって不安を取り除こうとしてきた。エド・ハルターは、デジタルの物質性を、1970年台の実験映画を引き合いに出しながら、「形式と内容、写されているということと写されているもの、知覚の中でその緊張関係を経験すること」としている。「メディウムが傷つき壊れ始め、不完全性を露わにする、まさにその瞬間、メディウムの特異性は指し示される。テクノロジーは失敗によって目に見えるものになる。我々は崩壊を通じて物質を見る。グリッチとエラーはその起源を白日のもとにさらすのである。」[19]
43 スタイルというよりプロセスを強調しているという意味で、物質主義者の視点は「グリッチ」より「データベンディング」という言葉と相性がいい。「グリッチ」のように作品の中に偶然を導入することを、「データベンディング」は意味しない。ロサ・メンクマンの A Vernacular of File Formats は異なる種類の壊れた画像のカタログであり、データベンディングする人に正確に操作してそのような画像を再生成するよう促している[20]。これは人々がグリッチをはじめるための手助けを目的として書かれたのだが、おそらく物質主義的アプローチを不毛なものにする助力にもなる ーー ファイルを壊すこととPhotoshopのフィルターが同等のものに帰着して ーー それはどうでもよくなる。そして、より偶然に依った、物質性やメディウムから離れた作品が守られる。
44 グリッチの美が、メインストリームメディアに組み込まれてきているのは間違いない。カニエ・ウェストの “Welcome to Heartbreak” (ネイビル・エルダーキン, 2009)のビデオは、「データモッシング」として知られるグリッチテクニックを使いながら、表面的でうまく調節されたものに仕上がっている。The Social Network (デイビッド・フィンチャー, 2010)のサウンドトラックCDのアートワークには、フリッカーのGlitch Artプールにあってもおかしくないようなグリッチしたスティル写真が用いられた[21]。グリッチしたイメージがメインストリームの映画に現れるときーーたとえば The Dark Knight(クリストファー・ノーラン, 2008)の中のジョーカーのビデオとか、Cloverfield(マット・リーヴス, 2008)のハンディカムの映像ーー それらは、(デジタル)映画の幻それ自体に疑問符を付けるためにではなく、本物らしさという名目で登場するのである。グリッチが映画内の映画という前提無しに登場する長編映画はめったにない。メインストリームカルチャーにおいてグリッチは、工芸技術としてではなく、真実性の意味で登場する。これは、ガレット・スチュワートが ーー 市民ケーンの中で流れる「苦労して手で汚して」作られたニュース映像を引き合いに出しながら ーー「汚しによる本物らしさ」と呼んだもののデジタルバージョンである。
「このレコードからは反人間的で反情緒的な特徴を感じ取った。これはある意味、人間の感情と手で作られたというより、テープレコーダーとアンプとスピーカーとマイクとリングモジュレーターで作られた音楽と言ったほうがいい。だからなんだ?今日、ほとんどすべての音楽が反情緒的であるし、機械によって作られている。」レスター・バングス、ルー・リードの Metal Machine Music へのレビュー[23]
45 グリッチアートが本物らしさと汚しに関連することを話したり書いたりするとき、人はいつも「壊れた」とか「破損した」とか「失敗した」というべきときに「やっちまった」(fucked up)という表現を使ってしまう。おそらくその理由は、グリッチの実践/美は、パンクの文化と親和性があり、そこでは見た目にも音的にも「やっちまった」が正しいのである。
46 年月が流れ簡単に忘れてまいそうだが、アナログの時代、中でも20世紀の中頃から後半までは、<ノイズリダクション>の時代だった。録音や映像のノイズを減らすために費やされた時間と労力とお金は、思っているより大きい。だから、世界初のDAT(デジタル・オーディオ・テープ)デッキの登場は一種の奇跡であった。テープの「ヒスノイズ」と歪みは永久追放された。ドルビーのノイズリダクションは無意味になった。しかし今日、高解像度でノイズレスの時代、古きノイズへの欲求が潜在的に存在する。ローファイの音楽や写真はその、ノイズの再導入というあまのじゃくな衝動の一部であるが、グリッチアートもそれと無関係ではない。ローファイアートはノイジーで品質不良の初期状態へ、あまのじゃくに再帰しようとすることだと言えるが、対してグリッチとは、こぎれいでピクセルが整列し完璧にドラッグドロップされる、といったデジタル時代の状況の中に、手間のかかる面倒なアナログの手作業の望まれぬ帰還を具現化するものである。
47 デッド・ケネディーズの1981年のEP、 In God We Trust, Inc. のある曲の冒頭でジェロ・ビアフラは曲名を次のように紹介する「‘Nazi Punks Fuck Off’ はマーティン・ハネットによってオーバープロデュースされてる。テイク4」。この言葉は、重々しく美しい多層的音響を持つジョイ・ディヴィジョンの2つの偉大なレコードで有名になった英国人音楽プロデューサーを名指ししている。それはともかく、デッド・ケネディーズは1970年台から80年台の音楽の潮流にはっきりと楯突いていた。「オーバープロデュース」はパンク以降には日常語になっていくが、デジタル以前の時代においてそれは、音楽制作におおきな障害がある場合にだけ行われるものだった。デッド・ケネディーズはアルバム制作をほとんどスタジオライブで行い、オーバープロデュースすることはなかった。また、オーバープロデュースできる時間とお金など欲しくてもなかったのである。
今日、デジタル録音のアルバムをオーバープロデュースだと揶揄してもほとんど意味がない。しかし、再帰的でいくらかノスタルジックな欲求が、パンクスのオーバープロデュースへの嫌悪に代わり登場する。曲/アルバム/アーティストの「過剰圧縮」である。なににもまして、グリッチアートが妨害行為としてうまくいくのは、<圧縮>のメカニズムがあるからであり、その中でローファイの美とパンクの倫理が回復するのである。
48 デジタルの変換が常にそれ自身を正しく復元するのだとしたら、グリッチはつまり<アナログのデジタルに対するパンク>である。グリッチは、正常さを台無しにする、従順さを欠く身振りであり、ソフトウェアを正しく使用することの放棄であり、不法占拠の技術的形態である。我々のコンピュータの中にあるが実際には我々のものではないソフトウェアが、使用許諾が壊れて、我々のものになる場合が時々ある。グリッチアーティストはアナーキーにランダムなデータを挿入し、コードを本来あるべき状態に戻し「開放」する、パンクの発散と騒音そして自由のメタファーはいまだ有効である。
49 グリッチは知識共有というオープンソースの精神性を持っているが、それはパンクのDIYの伝統から来ている。グリッチアーティストが作品をどうやって作成したか明かさないと、それがPhotoshop加工でない「本物」のグリッチなのかという疑問を引き起こすだけでなく、そのアーティストが集合知に協力せず利己的にそのテクニックを隠しているのではないかと言われる。これはすべて、信憑性に関する不安とグリッチの政治学の反映である。これは、はっきりとは言えないが、個人的<映像作家>たちが私的な動機を超えて協力関係と共同体を築くのに似ている。
50 2010年のGLI.TC/H カンファレンスに登場した「Glitchs not dead」(ママ)という言葉が記されたTシャツ[24]は楽しみ以上のなにかを備えている。このUCNVによる、過ぎ去ったパンクの歴史へのオマージュは、美学とよく整理された実践の両者に関して、グリッチは実際メインストリームのデザインに回収されて「終わってしまった」のか否かという長きにわたる議論をも同時に指し示しているという意味で、非常に適切なものである。
51 1980年台と1990年台を通じてパンクが新鮮さを失っていったように、グリッチが大衆音楽やテレビコマーシャルなどの中に取り込まれていくのを見るのは心苦しいものだ。同時に(パンクと大きく違って)、どんなに大衆的な場所にあらわれても、グリッチは芸術界のメインストリームには少しも近づくことがない。この無視状態ーーギャラリーの店頭販売で売られることの無さーーは、グリッチアーティストが、衝撃的な画像を大量生成するのにコンピュータを使用している、単なる引き金を引く役でしかない、その徹底的な制御の放棄に、直接関連しているのだろうか?グリッチは、視覚的にも聴覚的にも消耗するものであるのに対して、資本主義的な交換価値を持つ消耗品としては、それが労力のたまものではないため、無価値だと思われている。アーティストがグリッチを生産するのではない、そうではなく、それは転がり込んでくるのである。四捨五入すると、グリッチは0%のひらめきと0%の努力であると言えるーー資本主義的には受け入れがたいおはなし。(少なくとも、グリッチの労力はその他のアナログやデジタルの形式とくらべて非常にゼロに近いと言える)これに関して、<当然!>とパンクな声を挙げることができるだろう。その独学主義、事実上のコストゼロ生産、奔放な蔓延 ーー グリッチが無名状態に押しとどめられているのは、まったく当然のことである。
「欲動が、いわば、失敗を勝利に変えるーー欲動においては、目標への到達の失敗そのもの、この失敗の反復、つまり対象の周囲での再現のない循環は、それ自身の充足を生み出すのである。」スラヴォイ・ジジェク[25]
52 ラカンには失礼ながら、我々がグリッチアートの症状的「その他」と呼ぶもの ーー それが惰性になろうとも繰り返すを止めることはできないという事実 ーー を見落とさないことが重要である。グリッチされたJPEG画像をいくら見ようとも、それらをポストするのを止める反動があるわけではない。グリッチアートとは放蕩であり、自己管理への拒絶であり、そして多くの場合、自己修正の失敗である。鍵は、しかしながら、この「その他」を、狂っていて見境いのないものとしてではなく、積極的にグリッチの存在論の中心とみなすことである。グリッチとは反復である。デジタルの支配に対する戦争においてグリッチアートが持つ最も強力な武器は、発明ではなく、敵に対するデジタル変換の様々なプロセスを用いた、自らの調和を乱すようかのような目的なき反復なのだ。
53 繰り返しは分裂的であり、2つの全く異なる方向を持つ。一方には、破壊槌の暴力があり、障害を打ち据え次第にもろくする。一方は、目を瞠るほど華麗なやり口で変化を鈍くも拒絶するその状況への受動的な反動である。この2つ目の意味で、グリッチの実践とは欲望に従うものではなく、内圧や動力、その過激な内在性に従うものなのだ。
54 繰り返しを止めるのを拒むことで、グリッチは、メインストリームのデジタルメディアの完全性への指向や欲望はすべていとも簡単に破綻するのだということを常に思い起こさせるだろう。しかしながら、グリッチしつづけることへの抑えられない強迫観念、この惰性は、不運な副作用として、グリッチアートの真の力の構成要素となる。もし同じであることに対する潜在的不安が欠落しているのなら、グリッチの破壊性は奇しくも減退してしまうだろう。おそらく宿命的にそうなる。
55 デジタルの時代は、過剰にフォトショップ加工されたイメージによってもたらされる。シャープ効果は偽物のパリパリ感を生み出し、一方レンズ補正プログラムは撮影角度の誤差を埋めるために使われ、隔離され滅菌された写真品質をもたらす。デジタルの時代はまた、息苦しいほどまっさらな風景、絶え間なくうねる「カメラ」ワーク、そして超絶的に細かな表面を持った、コンピューターグラフィックスの大ヒット作をもたらす。グリッチはそのような映像からもっとも遠く、技術的進歩が不毛な状況へと再汚染してしまう。一度はその驚きの表情を隠し、その驚きを容易に忘却したとしても、また別の新しい驚きが入れ替わり現れる。10年以上にわたり強迫観念的にそれを行うなら、それは全く違う何かになる。
56 よきグリッチアートをよからしめるのは、無限のごとき画像の洪水のただ中で、コンピュータの中の野生の感性を保持することである。
ヒュー S. マローンは、クラーク大学の准教授で映像学の指導教官、ラカン派理論とフィルムノワールを専門とする。Cinema Journal、Film Criticism、Frameworkの数多くのアンソロジーに寄稿、トッド・ブラウニング、エドガー・G・ウルマー、ジョージ・ロメロ、ミヒャエル・ハネケ、スタンリー・キューブリックを論じる。パンクとローファイ、グリッチ表現に興味を持ち、現在は “Lack and Losslessness: Toward a Lacanian Aesthetics.” という題名の本を執筆している。
ダニエル・テムキンは、ときにはコンピュータとの容易ならざるコラボレーションを行いながら静的またはインタラクティブな作品を作る。北米やヨーロッパのギャラリーや美術館、Bent Festのようなグリッチに関わるイベントで作品を展示してきた。GLI.TC/H、 Rewire (Media Art Histories)、Hackers on Planet Earth などの会議で発表、ブダペストと南イタリアでアーティストレジデンシーを経験。現在は国際写真センターで美術学修士候補。
注釈
1 John Glenn, Into Orbit (London: Cassell, 1962), 86
2 Jason E. Squire, The Movie Business Book (New York: Fireside, 2004), 54
3 このエラーを再生性しようとする傾向は、トマス・ルフやジェシカ・イートンなど、グリッチアートではないが、グリッチの実践と別の面でつながっている作家の作品にも見出すことができる。
4 Sol LeWitt, “Sentences on Conceptual Art,” 0-9 (January 1969): 4; reprinted in Art-Language 1 (1969): 11-13; and in Ursula Meyer, Conceptual Art (New York: Penguin, 1972), 174-75
5 David N. Rodowick, The Virtual Life of Film (Cambridge: Harvard University Press, 2007), 125
6 我々はここで、ティム・バーカーが、フランツ・エルハルト・ヴァルターの事故的に濡れてしまったコラージュを「デジタルの範疇に限定されない」グリッチの形だとした論に意義を申し立てている。 Tim Barker, “Aesthetics of the Error: Media Art, the Machine, the Unforeseen, and the Errant,” in Mark Nunes, ed., Error: Glitch, Noise, and Jam in New Media Cultures (New York: Continuum, 2011), 45-6
7 Susan Sontag, Against Interpretation and Other Essays (New York: Picador, 2001), 287
8 Sylvère Lotringer and Paul Virilio, The Accident of Art (New York: Semiotext(e), 2005), 74
9 Roland Barthes, Le plaisir du texte (Paris: Éditions du Seuil, 1973), 42
10 Joel Spolsky, “The Law of Leaky Abstractions,” Joel on Software, last modified November 11, 2002, http://www.joelonsoftware.com/articles/LeakyAbstractions.html.
11 The now-commonplace leetspeak term “teh” and the UK-based clothing brand fcuk carry similarly glitchy connotations.
12 Jeff Donaldson, “Glitch Safari,” Vimeo group, accessed October 31, 2011, http://vimeo.com/groups/glitchsafari; Jeff Donaldson and Antonio Roberts, “Glitch Safari,” Flickr group, accessed October 31, 2011, http://www.flickr.com/groups/glitchsafari.
13 ダーコ・フリッツは、そのインターネット・エラー・メッセージ・プロジェクトにおいて、花やサボテンによる数百の「ピクセル」からなる大規模な園芸的作品としてHTTPエラーメッセージを再構成する。 Darko Fritz, “Projects,” darko fritz propaganda, accessed October 31, 2011, http://darkofritz.net/projects.html.
14 Iman Moradi, “Gltch Aesthetics” (B.A. honors dissertation, University of Huddersfield, 2004), 10-11
15 Ben Baker-Smith, “GlitchBot,” Bit_Synthesis, accessed October 31, 2011, http://bitsynthesis.com/glitchbot/.
16 Kim Asendorf, ExtraFile for OS X, accessed October 31, 2011, http://extrafile.org/.
17 Benjamin Berg, “Databending Images in WordPad,” stallio!’s way (blog), July 12, 2005, http://blog.animalswithinanimals.com/2005/07/databending-images-in-wordpad.html.
18 Andy Cameron, “Dinner with Myron Or: Rereading Artificial Reality 2: Reflections on Interface and Art,” in aRt&D: Research and Development in Art, eds. Joke Brouwer, et al. (Rotterdam: V2_NAi Publishers, 2005), 40-56; cited in Katja Kwastek, “Myron did it first” (presentation, Rewire Conference, Liverpool, UK, September 28-30, 2011).
19 Ed Halter, “The Matter of Electronics,” Vague Terrain, last modified February 3, 2010, http://vagueterrain.net/content/2010/02/matter-electronics.
20 Rosa Menkman, “A Vernacular of File Formats,” Sunshine in My Throat (blog), August 2010, http://rosa-menkman.blogspot.com/2010/08/vernacular-of-file-formats-2-workshop.html.
21 グラフィックデザイナーのロブ・シェリダンは、グリッチの美を模倣するために面倒なフォトショップ作業するのを避け、画像をグリッチすることにしたと記している。 Rob Sheridan, “The Social Network Soundtrack Art,” robsheridan.com, accessed October 31, 2011, http://rob-sheridan.com/TSN/.
22 Garrett Stewart, Framed Time: Toward a Postfilmic Cinema (Chicago: University of Chicago Press, 2007), 51
23 Lester Bangs, “The Greatest Album Ever Made,” in Psychotic Reactions and Carburetor Dung (New York: Alfred A. Knopf, 1987), 196
24 “Glitch Gallery Opening,” GLI.TC/H, accessed October 31, 2011, http://gli.tc/h/gallery.html.
25 Slavoj Žižek, The Parallax View, (Cambridge: MIT Press, 2006), 63
( Notes on Glitch http://www.worldpicturejournal.com/WP_6/Manon.html の訳出)