なんでもないようなことを書きたい。少し考えてみて、それが今の僕の求めているものだと気づいた。意味とか、理由とか、そういう目的ありきの思考パターンの外で、ただなにかを感じられるようになりたい。
僕は昔から、正しさを探していた。たぶん物心がついたくらいのころからしばらく、あらゆる物事には正しいやり方があり、唯一の答えがあるという世界認識をしていた。理屈っぽかったし、そこから逸脱することが気持ち悪かった。
なにかふざけたことをするときには、そのモードに入るためのスイッチを意識的に切り替えなければならなかった。オンかオフの2方向しかない、間のない機械的なメカニズム。しかしその先にも正しさからの逸脱はなく、今あるのとは別のもう一つの正しさの体系があるだけだった。
学校の課題で一番苦手なのは作文だった。どれくらいのものかと言うと、一文字も書けないまま数時間フリーズしてしまう程度には書けなかった。答えがいろいろあるということも理由の一つではあったが、いま考えると、自分がイメージできる正解の線が見つからなかったからだと思う。もちろん、一文字の綻びもない完全な解答が存在するとまでは考えていなかったが、それでも、こういう場合にはこういうことを書くもんだ、という正解パターンの型が常に存在するようには思っていた。
その型を見い出して実演できるだけの技量などは到底なかった。けれど完璧主義者の僕にとっては、不格好でもとりあえずやってみて60点の解答を目指すよりは、失敗の形跡を残さずに0点を出した方が自尊心を傷つけずに済んだ。当時、国語の成績はむしろ良い方だった。
それから時間が経って、僕はいつしか人並みに書けるようになっていた。これはおそらく、いや間違いなく、パソコンとインターネットの力によるものが大きい。おおよそ型のような存在が感じ取れない空間において、言葉を文字にするという行為をいい加減に繰り返してきた経験により、自分なりの身体感覚が培われていた。
そのうち、書くことが当たり前になってくるにつれて、書くための目的を求めるようになった。ただ書くだけでは意味がないと思った。技術は手段でしかない。書くべきことはなにか。考えるべきことはなにか。なにが正解なのか。なにが不正解なのか。
僕はまた書くことができなくなった。