ことしもやっぱりいつもとおんなじスタイルで2017年の印象的なものをふりかえっておく.
ビョークはかつて、こんなことを語った。「音楽は、『構成』(Plot)や『構造』(Structure)から離れ、『テキスチャー』(Textures)へと向かっている」。
音楽において、音の組み合わせなどから生じる総合的な印象。 テクスチュア(texture)という語は、textile(織物・編み物)と語源が同じで、「織り合わされたもの・織り方」という基本的な意味がある。転じて、感触や質感、肌理、詩的要素という意味合いを帯びるようになった。 音楽用語としては、楽曲の基調となる音の織り合わせ具合という意味か、あるいは、音の組み合わせ方から生じる総合的な印象といった意味に使われる。ごくふつうには前者の意味で使われることが多いが、「開かれたテクスチュア」というような場合は、後者の意味で使われている。
初めて聞いたとき,じぶんのオールタイムフェイバリットであるキャプテン・ビーフハート&ザ・マジック・バンド「トラウト・マスク・レプリカ」のことをどーしても思わずにはいられなかった.
だけど今ではまったく違ったとらえ方をしてる.
これは「音の組み合わせなどから生じる総合的な印象」つまりテクスチュアであるということ.そして一見無秩序にみえるのに「少子化問題、高齢ェェエエ者ッハアアアァアーー!! 高齢者問題はー!」(0:23〜)あたりでリズムが生まれるということ,さらにいえば反復するリズムによって自然に「構成」や「構造」が立ちあがるという原始的なダンスミュージックといってもいいんじゃないかということ.
ほらリズムが生まれるところに辿りつけばなんとなく身体が動いてしまうでしょう?
これって80年代初頭のニューウェーブからつづくインダストリアルミュージックの系譜とすごく似てはいるんだけど,現代と決定的にちがっているのがテクノロジーによってテクスチュアを構成する要素をより巧妙に緻密で複雑にすることができるというところだとおもう.
たとえば「演奏しているのは人間なのか機械なのか」はいうにおよばず「声や楽器」「音階」や「コードネーム」みたいな音楽を構成していたものを明確に分析したり分類することがむずかしくなってきているようなところ.
こういった複雑なテクスチュアから「構成」や「構造」が自然と立ちあがっていく様子をポップスとして形にしようとしているのがたとえば近年のビョークだったりするんじゃないかなとおもってる.
ref: 野々村竜太郎議員の号泣会見を全文書き起こし - ログミー
- TAAR - Come Together feat. iri - Remixes もしくは iri - life ep
- Alfred Beach Sandal + STUTS - ABS+STUTS
- Thundercat - Drunk
- Rafael Martini Sextet - suíte onírica
- Fkj - French Kiwi Juisce
足元をすこしだけ気にしながらゆっくりと速度をあげる.それと同時にまわりの景色がゆっくりと動きだしてドライヴする.
視界に入るビルや木立,耳に飛びこんでくる鳥の声や自動車や建設機械の無機質なノイズと靴底を介して感じられる道路の起伏や落葉の感触.
そんな小さなシグナルがいい塩梅でいくらか集まってくると無意識のうちにぼんやりとした光景が立ちあがってくる. 気がつけばほんのすこし前にふと頭に浮かんだ光景もやってきて,いまここにあるぼんやりとしたものと混じりあってまた別の光景を連れてくる.
読んだ印象は本当にこんなかんじ.ここ数年の読書体験のなかでも指折りのものだったといってもいい.
「歩くこと」に関するトピックという景色がどんどん流れてきてはすこし前に読んだ景色や昔どこかで見た景色と融けあって,さらに新しい景色が見えてくる. 一瞬読書しているのではなく目的もないまま思い巡らせてただダラダラと散歩しているんじゃないかという感覚さえ感じてしまいそうなほど.
あらかじめ用意された「構成」や「構造」は意識させず「散歩しているときに目や耳や肌で感じ頭の中で起こった反応を組み合わせてそのまま文章にした」というかんじ. もちろん著者自身の文章が素晴しいのだろうということもあるけれど,おそらく翻訳も内容にうまく寄り添っているのではと想像できる.
初版が2000年初頭なので911以降の社会の動きだったり,テクノロジーの急速な発展の影響なんかは言及されていないから全体的な内容の評価は読むひとによって分かれるんじゃないかとおもうけどね.
またこういうひとつのテーマに対して俯瞰的に様々なエピソードを連らねてまとめたもの,ということで食べごたえのあるバタークリームケーキのようなジェイムズ・グリック「インフォメーション―情報技術の人類史」のことをおもいだしてしまった.
ただ中心に据えた「歩く」というテーマがどんなひとにも普遍的なものであるせいかより軽やかな印象で,内容の難易度という起伏はあるものの,あたかもそれを感じながら歩行の歴史というトレイル歩きを楽しんでいるようなかんじだった.
それからこの本を手にとる機会があったらぜひともカバーを外して表紙を見てもらいたいとおもう.じぶんはすべて読み終えたあとにそれを目にして思わず「おー」と声が出た.
「身体運動としての歩行」は実にシンプルな反復運動だけれど,章を進めて考察されていくような「脱動物的・人間的な歩行」「思想や思考を伴う歩行」は移動が主たる目的である物理的な運動という側面だけではない.
「意識」や「景色」や「心拍」や「生理的な反応」なんかの複合的な組み合わせという側面としても存在し,そこからさらに新しい「文化」や「思想」がゆっくりと立ちあがってくることもある.
つまりテクスチュアでもあるといえるんじゃないかな.
あとソルニット以外のほかにことし気になったもののなかでもテジュ・コール「オープン・シティ (新潮クレスト・ブックス)」や多和田 葉子「百年の散歩」など「歩くこと」がキーとなるようなものが多かった印象がある.
「ブラタモリ」のことも「ウォークス」に関連して語られることがあったし.昨今のウェアラブルデバイスやフィットネス視点での「歩くこと」へのアプローチにまた別の視点からのアプローチが加わって「歩くこと」のまた次の解釈がなされるキッカケになってゆくんじゃないかなという気もしてる.
それから来年2018年は日本の衛星測位システムが4機体制になる(日本の利用者はGPS信号を捕捉するまで、30秒~1分ほどかかっていたのが15秒程度に短縮できる見込み)というGPS関連ではかなり大きな動きもあって,いままでよりもさらに優しく空の上から見守られながら「物理的な位置」だけではなく「意識の位置」も進めることができるんじゃないかな.
- レベッカ ソルニット - ウォークス 歩くことの精神史
- 安田 登 - 能 650年続いた仕掛けとは (新潮新書)
- 古川日出男 - 平家物語 犬王の巻
- ブリア=サヴァラン 玉村 豊男 (翻訳) - 美味礼讃
- 木原 善彦 - 実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で
それから「ウォークス 歩くことの精神史」のなかで知ったアラン・ブース「ニッポン縦断日記」がとにかく最高だった.
あまりによかったのでその流れでアラン・ブース「津軽―失われゆく風景を探して」もつづけて読んだ.
両作に共通していえることは「とにかくすべてを見なければならない」「見るからには取捨選択は許されない」ということ,「素朴な人々との触れあいにあたたかさを感じた」だの「自分を見つめなおすことができた」だのそんなものは勝手につくりあげたイメージであって旅の道程にはなく,ただ「田舎でもどこでも陰険なやつらはいる」し「人は見かけによらず親切にしてくれることもある」し「気分がよければビールを飲みたくなる」し「歩きつづけていれば靴下は臭くなる」ということだった.
着く前に目的地がどんな場所なのか頭の中にイメージを作りあげてみたり,旅行の途中での体験になんらかの想像や期待をしてしまうことはおそらく誰にもあるはず.
けれどブース的な観点からするとその想像をしてしまえばたちまち旅行の意味のいくらかを失ってしまう.たとえば実際に体験していないのにひとりよがりのそのイメージを旅行の記憶にしてしまったり.直接の言葉はないけれどどうしたってそう主張しているようにかんじてしまう.
ブースのやり方は「頭の中のイメージで旅していない」というべきか「この瞬間どこからか湧いてくるじぶんの好奇心を満たすがためだけに二本の足を前後に動かしている」という表現のほうがしっくりくるようにおもえた.
目的地はきっかけに過ぎず,得られるモノや感覚はあとから気づけばよい.異なる価値観で文化的にボコボコに殴られたと気づくのは旅したあとでも遅くはないということ.つまり「気にいらねえな」と思い返すのはあとからで十分ということ,そしてそのタイミングで意外にも「そうでもないな」と気がついたりすることもあるということ.
そんなスタンスだったからこそブースはああいう飄々とした物言いでコミュニケーションをとりながら長距離徒歩旅行ができたのだろう.
どんな場所にだって気に入らないやつらはいるし邪魔だってしてくる.そういう場所を縫って歩いて楽しむためには(荷物のパッキングもそうだしキモチだってそう)重心がどこにあればラクなのか.
これが「徒歩旅行の達人」と評されレベッカ・ソルニットをして「歩行の文芸が到達した一里塚」といわしめた書き手が送る「旅を楽しむためのコツ」なのではないかとおもった.
「おくのほそ道」の構造がめちゃくちゃinstagramぽいという気づきがあった.
さらに去年は短歌に対する興味について「コンテクストと奥行きがつくる世界」なんて言いかたをしてたんだけど今年は「どんな要素がコンテクストと奥行きを形づくっているのか(≒テクスチュア)探ってみたい」というほうへ興味がいったこともきっかけとなって実際に短歌をつくってみようという気分になった.
instagramにはまったく向いていないこの自分が,なにかtweetするにしても文字数制限ギリギリまで言葉をつめこみ気味なこの自分が,抽象表現的な写真を撮って気のきいたタグをつけ非リアルタイムでアップロードするみたいに短歌をつくった.
たとえばミサイルが頭の上を通り過ぎたり暴風雨が近づいたりしたとき.
物騒な目覚しだねと六時過ぎそれよりむしろどけよ雨雲
着弾を伝えるニュースより早く着丼すれば箸の割る音
「前線が南下するから逃げましょう」今夜あなたをさらう口実
警報の通知を鳴らす南風 鞄のなかでも吹き荒れてをり
作業をしていてもなにかしらの短歌にしてみたり.
眠たげな画面のにじみよそにして跳ねる新ゴと踊るヘルベチカ
サコッシュにした短歌もあった.
ガラス窓朝の光を押し返せ昼まで寝かせてあしたまた来て
カーソルできみの生まれた日を含むこのパスワードやさしく触れる
ちょっとずつ慣れてきたかんじがするから,このままいけばインスタグラマーになれるんじゃないかという気がしてる.
短歌を考えるの,言葉をものすごく意識するようになるので人に見せる見せない関係なしでとにかくつくってみるのおすすめです.その言葉はじぶんから自然にポンと出たものなのか,だれかのものを借りてきたのか,そんなことを意識するだけで見えてくる景色はずいぶん変わってくるはず.
あと友人の結婚祝いの品と一緒に短歌を送ったんだけどすごくよろこんでもらえた.来年は短歌で有給休暇申請したり要件定義したりしたい.
「横マチが広げられること」と「天マチをつかって2気室になること」だけで使い勝手が大きくかわるもんなんだなと感心した.そして着物にも意外とマッチする.
ウェブログの記事を参考にして旅行するとどうしても「確認作業」ぽくなってしまうけれど「むしろその確認作業がしたいのだ」「いやこれは確認作業ではなく追体験なのだ」と思わせてしまう内容.
その地理的条件から独自に食文化が発展したといわれている山形,特に庄内あたりの記事が多くて興奮する.岩がきが旬になる夏ごろに一週間ぐらいまとまった休みがあったら鳥海山周辺から南下しながら文字通り「食べつなぐ」旅行がしたい.
これは2017 Advent Calendar 2017の第22日目の記事です.昨日はo_tiさん,明日はtyoreさんです.
それではみなさま よいお年を
nbqx xoxo